「でも、これって放っておくわけにはいかないですよね。何か対策を考えないと、わたしはともかく、主任が世間から白い目で見られちゃいますよ」
主任はこの先、絢乃会長との結婚を控えていらっしゃるのだ。会長がどう思われるかは分からないけれど、篠沢家という名家に婿入りするのにふさわしくないと世間の人たちは思うかもしれない。お二人の関係はもう公になっているから。
「…………分かった。矢神さん、これから一緒に会長室へ行こう。会長に、これからどうするか相談してみようか」
「はい。わたしもその方がいいと思います」
わたしたちの会話を聞いていた小川先輩も、「私もそう思うよ」と同意して下さった。
「というわけなんで、室長。僕と矢神さんは少し業務から外れます。……とはいっても、僕はすぐ仕事に戻れますけど」
「分かりました。指導係の小川さんも承知しているなら、私は構いませんよ。行ってきなさい」
「室長、ありがとうございます。行ってきます」
主任はわたしを連れて、会長室へ。主任がドアをノックして入室すると、デスクから立ち上がって出迎えて下さった会長は主任の後ろにわたしもいることにちょっと驚かれていた。
「おはようございます、会長。矢神さんのことで、ちょっと困ったことが起きたので、二人で相談しに伺いました」
「……おはようございます」
「おはよう、矢神さん、桐島さん。――ちょうどよかった。わたしも今、二人をここへ呼ぼうと思ってたの。こ
「でも、これって放っておくわけにはいかないですよね。何か対策を考えないと、わたしはともかく、主任が世間から白い目で見られちゃいますよ」 主任はこの先、絢乃会長との結婚を控えていらっしゃるのだ。会長がどう思われるかは分からないけれど、篠沢家という名家に婿入りするのにふさわしくないと世間の人たちは思うかもしれない。お二人の関係はもう公(おおやけ)になっているから。「…………分かった。矢神さん、これから一緒に会長室へ行こう。会長に、これからどうするか相談してみようか」「はい。わたしもその方がいいと思います」 わたしたちの会話を聞いていた小川先輩も、「私もそう思うよ」と同意して下さった。「というわけなんで、室長。僕と矢神さんは少し業務から外れます。……とはいっても、僕はすぐ仕事に戻れますけど」「分かりました。指導係の小川さんも承知しているなら、私は構いませんよ。行ってきなさい」「室長、ありがとうございます。行ってきます」 主任はわたしを連れて、会長室へ。主任がドアをノックして入室すると、デスクから立ち上がって出迎えて下さった会長は主任の後ろにわたしもいることにちょっと驚かれていた。「おはようございます、会長。矢神さんのことで、ちょっと困ったことが起きたので、二人で相談しに伺いました」「……おはようございます」「おはよう、矢神さん、桐島さん。――ちょうどよかった。わたしも今、二人をここへ呼ぼうと思ってたの。こ
――桐島主任は翌日からも、平日には毎日出勤時と退勤後にわたしの送迎をして下さった。 帰りには必ず「矢神さん、お腹減ってない?」と訊いて下さって、時々は一緒に夕飯を付き合って下さることもあった。 その時はたいてい牛丼屋さんやラーメン屋さん、回転ずしなどのごく一般的なお店。絢乃会長とはいつも高級なお店でお食事をしていると思ったら、「わりとこんなもんだよ」とおっしゃっていてビックリした。それも、会長のリクエストでそうなるらしい。 わたしは入江くん一筋で主任に恋心なんて抱いていないし、主任だって会長と相思相愛なので、これは決してデートなんかじゃないのだけれど。宮坂くんも果たしてそう思っていたかどうか……。 * * * *「――おはようございます」「おはようございま……、どうしたんですか?」 今日も、わたしは主任と一緒に出社してきたのだけれど。秘書室の皆さんの様子がどこかおかしい。小川先輩がスマホを覗き込みながら、眉根をひそめている。「矢神さん、桐島くん、おはよう。――ちょっとこれ見て」「えっ?」「何ですか?」 わたしと主任、二人揃って先輩のデスクに近付きスマホの画面を見せてもらうと、そこに表示されているのはSNSのある投稿だった。『この女は俺のカノジョですが、つい最近別のオトコと浮気してるっぽい。 オトコはカノジョの会社の上司だって。どうせコイツがカノジョを誘惑したんだ。 俺のオンナに手を出すな~~!!(怒) #篠沢商事 #浮気相手に制裁を』 その投稿には、ウチのマンションの前で話し込むわたしと主任を横から撮ったと思しき2ショット写真が添付されている。撮られた覚えなんてないので、きっと隠し撮りだろう。「何、これ。いつの間に……」「またか……」 わたしは気づかないうちに盗撮されていたことに呆然となり、主任はSNSで攻撃されたのがこれで二回目だということにウンザリしているようだ。「業務の一環で、〝篠沢商事〟のタグでこの会社に関する投稿を検索してたらたまたま見つけたの。――私は桐島くんが会長とラブラブなこと知ってるし、矢神さんにも他に好きな人がいるらしいことは分かってるから、別に何とも思わない。でも、何も知らない人はこの投稿を見て、文面どおりに解釈するでしょうね」「あ……、そうですよね」「矢神さん、桐島くん。この投稿した人に心当
――わたしは主任が運転するシルバーのセダンの助手席に乗せてもらい、代々木のマンションまで送ってもらうことになった。……でも緊張して、何だかそわそわして落ち着かない。 それに、いつもならこの席には絢乃会長が座っているはずで。運転席から助手席の間って、親しい間柄の人たちの距離感だよなぁと思ってしまう。「あの……、なんかすみません。会長の指定席を取ってしまったみたいで」 華麗なハンドル捌きの主任がカッコよすぎて直視できず、わたしは前を向いたままとにかく何か言わなきゃ、と口を開いた。「いや、いいんだよ。二人だけで乗ってる時に後部座席っていうのもね、なんか変だし。っていうか、いつも会長には当たり前のように助手席に乗って頂いてるから、そのクセで」「ああー、そういうことですか」 ……う~ん、気まずい。会話が続かない……。「そういえば、会長の助手席デビューも僕のクルマだったんだ」「えっ、そうなんですか?」「うん。これじゃなくて、ボロい中古の軽(ケイ)だったけどね。本人の希望だったから」「へぇー、そうだったんですか……」 今や日本屈指の大財閥のトップであらせられる絢乃会長が、中古の軽の助手席に乗っている姿か……。何だか想像がつかない。「その時の様子って、どうだったんですか?」「すごく嬉しそうにされてたよ。僕に『その若さでマイカーを持ってるだけでスゴい』っておっしゃってたし」「わたしもそう思います」「――そういえば、入江くんってクルマの免許持ってるんだよね? 確かバーベキュー親睦会の時、社用車で買い出しに行ったって久保から聞いた」「……えっ?」 唐突に入江くんの話題になり、わたしはビックリして主任の方を振り向いた。多分、わたしの緊張をほぐそうとして下さったんだと思う。「はい、持ってます。大学の頃、夏休みに合宿免許で取ったって言ってました。でも、クルマは持ってなくて……」「残念だよね、矢神さん。もし彼がクルマを持ってたら、こうして一緒にドライブできてたかもしれないのに」「あ…………、はい……。そうですね」 もしかしたら、主任に見透かされていたのかな? 運転しているのが入江くんだったらよかったのに、なんてわたしがこっそり思っていたことを。「あ、もしかして、『運転してるのが入江くんだったらよかったのに……』って思ってた?」「…………はい」
――その日、終業時間を迎えたけれど、いつも入江くんから来るはずの「帰り、送ってくよ」のメッセージが来ない。「――矢神さん、今日からしばらく僕がクルマで朝と帰りに君の送迎をすることになったから」 そんなわたしは桐島主任から唐突にそう言われ、「えっ?」と戸惑った。「あの……、そのお話ならお断りしたはずですけど。それにわたし、いつも入江くんにマンション前まで送ってもらっているので――」「その入江くんから頼まれたんだよ。今日の昼休みにね」「それって……」「うん」 主任はお昼休みの出来事――わたしと佳菜ちゃんが見ていた後のことを、わたしに話して下さった。 ――入江くんに呼び止められた絢乃会長と主任は、あの後彼と一緒に会長室へ行かれたらしい。入江くんはそこで改めて、桐島主任に頭を下げてわたしのボディーガードを頼み込んだそうだ。『本当はオレがアイツのことを守ってやりたいんですけど、いざっていう時に家が離れてるんで、すっ飛んでってやるわけにいかなくて。それにオレ、ラグビーはやってましたけど、格闘技をやってたわけじゃないし。桐島さんならアイツと家も近いし、キックボクシングやってるんすよね? だったら安心かな、って』 会長からも頼まれて――というか、もう半分は命令されたも同然だろう――、主任は引き受けて下さることにしたらしい。「……というわけなんだ」「主任は……それでよかったんですか?」「うん、会長命令でもあるしね。昨日も言ったけど、大切な部下を守ることも上司の務めだし。それに、入江くんがいちばんもどかしいと思うから。そんな彼の頼みなら断れない」「……そう、ですよね」 わたしにも入江くんの気持ちはすごく分かるし、そう思っていてくれるのが嬉しい。そして多分、主任は義理堅い人なのかな、とも思う、それともただのお人好(よ)しなだけなのかな?「そういうことでしたら、わたしからもよろしくお願いします」「分かった。じゃあ、あまり遅くならないうちに行こう。クルマは地下駐車場に停めてあるから」「はい。わたしも駐車場まで一緒に行きます」 わたしと主任はそれぞれ手早く帰る支度を済ませ、室長や小川先輩に「お疲れさまでした。お先に失礼します」と挨拶をして、二人一緒に地下駐車場までエレベーターで降りていく。 室長も先輩も不思議に思わなかったのは、この経緯をお二人ともご
――初めて挑戦したお客様への応対は、小川先輩にほんの少しだけフォローしてもらったけれどどうにかやり遂げることができた。 お茶菓子にはわたしが選んだ抹茶のロールケーキが採用され、お客様にも喜んで頂けた。それどころか、ご家族で召し上がって頂けるようにと手土産にも同じロールケーキを一本お渡ししたところ、「君は気が利くね。ありがとう」と大変感謝されたくらいだ。「――矢神さん、お疲れさま! でもよくできました」「ありがとうございます、小川先輩。先輩のフォローのおかげですよ」「またまたぁ! 私がフォローしたところなんかほとんどなかったじゃない。あのお茶菓子のチョイスと、お土産に一本差し上げたところなんか私より気配り上手だったよー。あなたには秘書としての素質があると思う」「そんな……、わたしなんてまだまだこれからです。これからもご指導のほど、よろしくお願いします」「謙虚だなぁ、矢神さんは。まあ、そこがあなたのいいところなんだけどね」 ……とまあ、小川先輩はわたしのことをベタ褒めして下さった。自分では緊張でちゃんとできていたかどうか自信がなかったけれど、小川先輩は過大評価をするような人ではないので、この評価はきっと妥当なんだろう。「初めてでこれだけできるなら安心ね、これからは一人で応対してもらおうかな」「えーーっ!? そんなぁ……」「ウソウソ! 冗談だよ。社長秘書は私なんだから、まだサポートに回ってもらうだけ。でも社長は、いずれはあなたを第二秘書に、と思ってらっしゃるみたいだけど」「第二秘書……。わたしが、ですか?」「ええ。あなたは真面目だし優秀だから、任せて大丈夫だろうって。私もあなたになら安心して任せられる」 まだ入社一年目で役職(ポスト)に就(つ)かせてもらえるかもしれないなんて、嬉しい以前に信じられない。夢でも見ているんじゃないだろうか。「ウチの会社ではよくあることなの。特に、絢乃会長が就任されてからはね。だってほら、桐島くんだってまだ二十代で主任でしょ?」「ああ、そういえば……そうですよね。ウワサでは、会長とご結婚された後には役員になられるとか」「そうなのよ。やっぱり、会長のパートナーになるとね、それ相応のポストに就かないとおかしいんじゃないかってことらしくて」「はあ、そうなんですか。主任は確か、婿入りされるんですよね。セレブのお家に
「……なんか、わたしの望んでない方向に展開していってる気がする」「麻衣はそれが不本意なわけ? でも、アンタが安全でいられる方がいいじゃん」「まあ……、そうなんだけど。じゃあわたし、先に部署に戻るよ。給湯室でお弁当箱洗っておきたいし。佳菜ちゃんはゆっくり食べてて。あと、入江くんが戻ってきたら、わたしは先に仕事に戻ったって言っておいてね」 わたしは先にお弁当を食べ終えていたので、まだ食事中の佳菜ちゃんにそう言って席を立った。「オッケー。っていうかアイツ、戻ってくるのかねえ。ラーメン伸びるっつうの」 佳菜ちゃんは入江くんが座っていた向かいの席に目をやって頬杖をつく。そこにはまだ食べかけのラーメンのどんぶりが置かれたままだった。 * * * *「――ただいま戻りました」 秘書室のオフィスに戻って、給湯室で洗ってきたお弁当箱を保冷バッグごとロッカーにしまう。室長はまだお昼休憩から戻ってきておらず、オフィスには小川先輩だけがいた。「ああ、お帰り、矢神さん。――そうだ。二時ごろに、社長にお客様がお見えになるの。よかったらその方の応対、やってみる?」「えっ、わたしが? いいんですか?」「うん。もちろん、あなたひとりに丸投げするわけじゃなくて、私もちゃんとフォローするから。そろそろ本格的に秘書の実務を覚えてもらってもいいかな……と思ってね。室長にも話しておくから」 まだ入社して一ヶ月も経っていないけれど、いつまでも座学で基本的なデスクワークばかりしていられない。秘書の仕事のメインはやっぱり、来客へのおもてなしだと思う。「はい、やってみたいです! ご指導よろしくお願いします!」「分かった。じゃあ、まずはお茶菓子を買いに行こうか。この近くだと、東京駅のエキナカかな」「ですね。どんな飲み物をお出しするかによっても、買うものは違ってくると思うんですけど」「お出しするのは日本茶でいいかな、と思ってるんだけど、お客様はどうも和菓子が苦手みたいで……。どうしようか?」「それじゃ、抹茶系のスイーツはどうですか? 洋菓子でも日本茶に合いそうですし」「ああ、それいいかも! 矢神さん、ナイス!」 小川先輩が、わたしの思いつきを褒めて下さった。というわけで、わたしは先輩と二人で秘書としての初ミッションに臨むこととなった。一人だと不安だっただろうけれど、頼もしい先輩